江戸時代、津山藩の初代藩主である森忠政は、この湯を気に入り、湯治場として利用するため、鍵をかけ、村人や部外者が利用できないようにしたことから「鍵湯(かぎゆ)」と呼ばれるようになりました。 鍵湯は、趣はそのままに現在では奥津荘の浴場として使用されています。

奥津荘創業者の鈴木春次郎が大正時代に岡山市内(現岡山市北区天神町)で料亭を営んでいた頃、大正末期に奥津荘の前身である「錦泉楼(きんせんろう)」が奥津の大火で焼失しました。当時、料亭の常連であった後の第29代内閣総理大臣、犬養毅氏のご紹介により、ここ奥津温泉にて錦泉楼の再建をと、奥津荘を開業することとなりました。開業後は度々、犬養氏に奥津荘に足をお運びいただき、多くの書を残していただきました。 また、現津山市出身の第35代内閣総理大臣、平沼騏一郎氏にも度々奥津荘を訪れて頂きました。

20世紀の美術界を代表する世界的版画作家である棟方志功は、昭和22年~28年頃、度々奥津の地を訪れ、奥津の自然を愛で、創作活動にも多くの時間を費やし、数々の作品を残しました。また、当館から車で20分ほどにある津山も大変愛し、そこでの恋は昭和27年、「美作路」というタイトルで詠まれた歌の1首に込められています。

奥津荘には棟方志功が残したいくつかの作品を展示しています。